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牧野植物園の園長が行方不明なぜ?朝ドラ らんまん植物園の5代目園長の功績を紹介

牧野植物園の園長が行方不明なぜ?朝ドラ らんまん植物園の5代目園長の功績を紹介
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朝ドラ『らんまん』の放送を毎日楽しみにしている方、多いですよね。

ストーリーの展開にハラハラしながら時には涙ぐみ、神木隆之介さんと浜辺美波さんの演技と赤ちゃんのかわいさに朝から癒されている筆者です。

人生山あり谷あり、いいことも悪いこともあるけれど徹底的に自分の夢に向かって生きる槙野万太郎と妻の寿恵子さんを応援をしたくなってしまうドラマですよね。

そんな朝ドラ『らんまん』ゆかりの高知の牧野植物園の園長が数年前に行方不明になっていたと知り驚きました。

今回は、牧野植物園の園長がなぜ行方不明になってしまったのか?現在放送中の朝ドラの『らんまん』で注目されている植物園の5代目園長はどんな功績を残された方だったのか?を紹介していきたいと思いいます。

 

牧野植物園の園長が行方不明で発見に至るまで

牧野植物園の園長が行方不明 その後発見された?朝ドラ らんまん植物園の5代目園長の功績を紹介

近年、お年寄りの行方不明者が増えていると言います。

よくあるのが、認知症を患っていて家族が知らない間にどこかへ行ってしまったなどです。

牧野植物園の元園長の場合は、どんな理由があったのでしょうか。

どのような経緯で発見に至ったのかを調べていきます。

 

行方不明になったのは牧野植物園の園長だった山脇哲臣さん

牧野植物園元園長の山脇哲臣(やまわき てっしん)さんは、当時98歳のご高齢でした。

2016年9月26日のお昼頃に、山脇さんの姿が見えなくなったというところから始まっています。

捜索してもなかなか見つからないという状態が続いていたようです。

ご家族の方も、ご心配だったでしょうね。

一人で外出した山脇さんは9月26日のお昼には、姿が確認されていました。

とさでん交通「桟橋通五丁目」電停で降車するのを運転士が見たと証言しています。

それ以降、行方が分からなくなっているという状態でした。

 

消息不明から二ヶ月後に山脇哲臣さんとみられる方が発見される

山脇さんが行方不明になってから、二ヶ月も経過してからのことです。

2016年11月27日朝、通行人の方から遺体を発見したと110番があったそうです。

場所は、高知市桟橋通6丁目の県道脇の側溝内。

一部白骨化していたのですが、山脇哲臣さんとみて確認作業を行ったと。

近くには杖があり、状態はうつぶせで着衣は長袖シャツと黒っぽいズボンで運動靴を履いていたそうです。

身に着けていたウエストポーチの中から、山脇さん名義の健康保険証や病院の診察券が見つかったことから、ほぼご本人であり事件性はないとされたそうです。

このような不慮の事故でご家族を亡くされたご心痛は察するに余りあります。

地元の方のお話からすると、人通りの少ないところでの事故で残念なことに発見が遅れてしまいこのようなことになってしまったと推察されますね。

 

朝ドラ らんまん植物園の5代目園長の功績は

牧野植物園の園長が行方不明 その後発見された?朝ドラ らんまん植物園の5代目園長の功績を紹介

朝ドラ『らんまん』を見ている方なら、牧野富太郎博士ゆかりの植物を展示しているところが高知県立牧野植物園であることをご存じでしょう。

そこの園長をされていたということは、有能な立派な方だったのではないかと想像します。

そこで、牧野植物園の元園長である山脇哲臣さんの功績について紹介していこうと思います。

 

故山脇哲臣さんが園長を務めていた牧野植物園とは

朝ドラ『らんまん』で初期の放送は高知県が舞台になっていました。

その高知県高知市五台山に、高知県立牧野植物園はあります。

高知県立牧野植物園

1958年に牧野富太郎博士の業績を顕彰する施設として、五台山に「県営牧野植物園」として開園することとなる。「牧野富太郎博士の偉業を顕彰し、植物研究を通じて、教育文化の向上及び産業振興に寄与するとともに、土佐寒蘭の保護及び知識の普及を図り、県民に対し、憩いの場を提供する」ことを設置目的としている。 園内には3000種近い植物が栽培されている。     出典:Wikipedia

なぜ、五台山に牧野植物園を作ることになったか?ですが…

それは「植物園を作るなら五台山がええ」という89歳の牧野富太郎博士のひとことで決まったと言われています。

 「土佐の植物生態園」から始まり博士の生涯を解説した展示があり、貴重な博士の植物コレクションがこれでもかといったほど詰め込まれた世界が目の前に広がります。

展示されている植物の圧倒的な多さに驚きを感じるでしょうし、『らんまん』で目にする牧野式植物図の本物を見られるだけでも価値のあることだと思います。

 

ようこそ、「歩ける植物図鑑」高知へ。 牧野植物園に行ってみたいと思いませんか?

 

山脇哲臣元園長の功績は

牧野植物園の歴代園長の中で、5代目の園長を務められました。

高知県立牧野植物園の園長を退任後は、土佐寒蘭センター長の職にも就いていらっしゃいました。

牧野植物園 元園長 山脇哲臣さんの功績

山脇哲臣さんは1948年に県庁に入り、1959年に牧野植物園に就任されました。

1968年に園長となり78年に退任するまで約20年に渡り牧野植物園の基礎を築き上げることに奮励されました。

山脇さんは「植物園は植物学と美学が結び付いたもの」と語っていらっしゃいました。「珍種や美しい花々を展示する場所」との意義が主流だった当時、牧野植物園では県内の野生植物が自生する環境を再現し、自然そのものの美しさを訴えかける造園の先駆けとなりました。

赴任当初、約5千平方メートルだった植物園の敷地面積を3万3千平方メートルまで広げ、牧野富太郎博士の記念館や文庫も建設。

山脇園長らの奮闘によって牧野植物園の名は徐々に広まり、昭和天皇や当時皇太子であった今上天皇も足を運ばれました。

長年の功績が認められ78年には県文化賞、89年には勲五等双光旭日章を受けられました。

2016年12月の高知新聞より抜粋

牧野富太郎博士の目指す植物園を実現されるために尽力された重要な人物だったことがわかりました。

 

山脇哲臣さんは新種の植物を発見していた

『らんまん』では、牧野万太郎が新種にこだわりを持って採取し命名して発表することが描かれています。

山脇哲臣さんも、新種の植物をみつけていたんですね。

ヤマワキオゴケ

キョウチクトウ科 カモメヅル属

Vincetoxicum yamanakae

山麓の半日陰の草地に生える合弁花草本。葉は大型で洋紙質、花は濃紫色で副花冠は長さ1.5㎜程度
自生地は、四国(高知、徳島)
現在、絶滅危惧IA類となっています。

この「ヤマワキオゴケ」という名は、昭和33年に高知県香我美町でこの種を発見した山脇哲臣さんにちなんでつけられたそうです。

 

山脇哲臣さんは生涯植物を愛する人だった

2007年、山脇さんが89歳の頃の話です。

NHK高知放送局の番組「とさ金」で敬老の日特集の放送で、山脇哲臣さんを取り上げたそうです。

その取材の山脇さんの様子から、植物に魅了された人であることがよくわかるエピソードが語られていました。

旧土佐山村の山へロケに向かったところ、山脇さんは8ヘクタールもの山に山野草を植えて公園にして毎日のように通って手入れをしているのだと教えてくれたそうです。

牧野植物園の縮小版のような公園を作っていたのでしょうか。

これは野生植物が自生する環境を再現し、自然そのものの美しさを訴えかけるという牧野植物園のコンセプトと同じ。

それをしていらっしゃったんだと感じました。

そして、まるで友人に説明してくれているように草花について教えてくださったそうです。

牧野植物園の園長をお辞めになった後でも、草花を自然のままに優しく育み見守る心を持ち続けた方だったのでしょうね。

このようなエピソードを知るにつけ、牧野富太郎博士に通ずるものがあるのだと感じました。

まとめ

牧野植物園の園長が行方不明 その後発見された?朝ドラ らんまん植物園の5代目園長の功績を紹介

みなさんは、朝ドラ『らんまん』の主人公のモデルである牧野富太郎博士ゆかりの牧野植物園が高知県にあることはご存じだったと思います。

その牧野植物園の園長が行方不明になって何日経っても見つからない…

しかも、数か月後に亡くなっているのが発見されるなんて。

とってもショッキングな話ですし、本当にお気の毒なことだったと思います。

残念にもお亡くなりになった元園長の山脇哲臣さんですが、調べてみると牧野植物園で尽力され素晴らしい功績を残していらっしゃる方でした。

山脇さんの生前のエピソードを知ることで、生涯にわたって牧野富太郎博士のように植物を愛する方であったと感じました。

牧野植物園の発展にとって重要人物であったのはまぎれもない事実で、山脇哲臣元園長のこれまでの功績をたたえご冥福をお祈りしたいと思います。

今回は『牧野植物園の園長が行方不明なぜ?朝ドラ らんまん植物園の5代目園長の功績を紹介』をお届けしました。