スポーツ

ラグビー平尾誠二の名言とは?ミスターラグビー平尾誠二と称される理由は?

ラグビー平尾誠二の名言とは?ミスターラグビー平尾誠二と称される理由は?
Pocket

現在、ラグビーワールドカップ2023フランス大会が開催されています。

ラグビーといえば、今から40年ほど前から徐々にブームが起こっていました。

当時、選手を乗せたバスのまわりがキャーキャー歓声をあげる女子だらけになるほどの人気でしたね。

その中でも平尾誠二さんは、とびぬけて人気がありました。

同志社のラグビー選手時代から、超イケメンの人気者でとにかくかっこよかったんです。

それから時を経て平尾誠二さんは「ミスターラグビー」と呼ばれるようになっていました。

残念ながら今はもうそのお姿を見ることはできませんが、多くの名言を残しています。

そこで、ラグビー平尾誠二の名言とは何?ミスターラグビー平尾誠二と称される理由を調査していきたいと思います。

 

ラグビー平尾誠二の名言とは?

ラグビー平尾誠二の名言とは?ミスターラグビー平尾誠二と称される理由は?

平尾誠二さんは、ただカッコイイだけのイケメンじゃなかったんです。

自分のポリシーがある、頭のいい人だったんですね。

もちろんこれが名言だというつもりでご本人が言葉を発してはいなかったと思いますが、結果的に皆の納得できる良いことをおっしゃっていたんですね。

だからこそ、多くの名言となって現在も語り継がれているのでしょう。

 

平尾誠二氏はどんな人?

平尾誠二さんと聞いて「はい、知ってます」って方はそんなに若くはない気がしますが、どうでしょうか?

どんな人であったのかをみていきましょう。

平尾誠二さんのプロフィール

平尾 誠二(ひらお せいじ、1963年(昭和38年)1月21日 – 2016年(平成28年)10月20日)

日本のラグビー選手。日本代表選手であったほか、日本代表監督、神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督兼任ゼネラルマネージャーなどを歴任し、ミスター・ラグビーと呼ばれた

京都府京都市南区出身、京都市立伏見工業高等学校、同志社大学商学部商学科卒業。同志社大学大学院政策科学総合研究科(修士課程)修了。

現役時代のポジションは主にスタンドオフ及びインサイドセンター。

日本代表キャップは35                    出典:Wikipediaより

平尾誠二さんの在籍していた京都市立伏見工業高等学校ラグビー部は、TBSドラマ「スクールウォーズ」の舞台となりました。

平尾さんが中学3年の時に出場した京都府秋季大会決勝戦を見た泣き虫先生こと山口良治先生が、そのプレーにほれ込み平尾さんの自宅を訪ねました。

山口先生が直接平尾誠二さんを当時ワルの集まりと言われた伏見工業高校に誘い、平尾さんは入学するはずだった花園学園へは行かず両親の反対を押し切って伏見工業高校に入学しました。

山口先生の必死の勧誘と平尾少年の熱意がなかったら、その後の日本ラグビーの人気や勢力図も大きく変わっていたかもしれないほどの選手だったんです。

 

平尾誠二さんの経歴とエピソード

平尾誠二さんが選手だったころや監督をされていた、またその後のエピソードを見ていきましょう。

  • 平尾は伏見工業高校1年の京都府大会決勝で花園高に敗れ、悔しさの余り表彰式で受け取った準優勝トロフィーを投げ捨てて帰ってきた。翌年には全国大会に出場し、高校3年生の時には、全国大会で優勝するチームの主将になった。

 

  • 1982年平尾は史上最年少(19歳4ヶ月)で日本代表に選出されている。同志社ラグビー部ではセンターとして活躍。大学選手権では史上初の3連覇に貢献。1985年の日本選手権では新日鉄釜石には勝てなかった。

 

  • 1985年 平尾はラグビーをやめ、デザイン学校に進学するためにイギリスへ留学。しかし、ファッション誌のモデル出演がアマチュア規定に違反したため、日本代表候補選手から除外された。

 

  • この汚名を返上するために、日本の一流ラグビーチームでの活躍が必要とされ神戸製鋼への入社を決める。平尾は神戸製鋼でキャプテンを務め7回の日本選手権優勝に貢献した。1997年から日本代表の監督に就任し「平尾ジャパン」が誕生した。

 

  • 引退後の活動: 引退後、平尾はラグビー関連の役職やNPOの設立、文部科学省委員など、スポーツと社会への貢献を続けた。

 

  • 平尾誠二さんは、2016年10月20日に胆管細胞癌により53歳で永眠されました

出典:Wikipediaより

 

ラグビー選手であり監督でもあった平尾誠二の名言は

平尾誠二さんは、聡明で自分に厳しくそして劇的なエピソードが多い方ですね。

そんな経験を持つ平尾誠二さんの名言は、どんなものなのでしょうか。

数多くの名言を残していらっしゃいますが、その中から7つの名言を選んでみました。

さっそく、みていきましょう。

 

人を叱る時の四つの心得:プレーは叱っても人格は責めない。あとで必ずフォローする。他人と比較しない。長時間叱らない。

 

たとえそれで試合に負けたとしても、死にはしないし、また次があります

 

練習は量より質、質より気分

 

僕は厳しいです。でも厳しい練習をする時は、理由をきちんと説明して、それを越えさせます。逃げ道も作りません。

 

人間は、本当に上手になりたいと思ったときにこそ、学習能力を発揮するのです

 

人生はラグビーボールと同じ。楕円形のボールはどこに転がっていくかわからない。しょうがないやないか。

 

理不尽や不条理や矛盾を経験しないと、やっぱり人間は成長しないし、強くならないと思う。理不尽な経験をポジティブにとらえれば、得るものがいろいろあるはずなんです。
むしろ、逆にそれを面白がるくらいじゃないとね。
〝しゃあない、こんなこともある。でも、なんとかなるわ〟という気持ちで理不尽に臨んでいける奴、そのなかで生きていける奴でないと、何をするにも絶対無理ですわ。

                                       一部出典元:友情 平尾誠二と山中伸弥「最後の一年」

本当にその通りだなと思うことをおっしゃってますね。

平尾誠二さんの言葉は、ビジネスの場面で活用されることも多いとのこと。

非常に自分にも厳しく、また指導者としても厳しくもあり人格者であったことがこのたったの7つ名言にも表われていると思います。

ミスターラグビー平尾誠二と称される理由は?

ラグビー平尾誠二の名言とは?ミスターラグビー平尾誠二と称される理由は?

「ミスターラグビー」の愛称で親しまれいる平尾誠二さんですが、そう呼ばれるようになったのには何か理由があったはずです。

どんな理由で、「ミスターラグビー」と呼ばれるようになったのでしょうか?

さっそく調べていきましょう。

 

端正な顔立ちとスタイルの良さ

ラグビー選手の中でも際立っていたのが、平尾誠二さんの見た目の良さです。

端正な顔立ちとスタイルは、生まれ持ったもの。

1970年代終わり頃から、多分それ以前にはなかった女子がラグビーというスポーツに興味を示し始め盛り上がっていきました。

その功労者でもある平尾誠二さん。

とにかく、カッコイイ方でした。

有名なこの番組にも出演されていたんですね。

 

日本ラグビーが躍進する礎を作った人

平尾誠二さんは、1997年から日本代表の監督に就任。

そして「平尾ジャパン」が誕生。

平尾さんは、代表の強化をするため従来の日本になかった新しい発想で様々な方法を取り入れたのです。

 

相手チームの映像やデータの分析

まだインターネットがそこまで普及していない状態でデータを簡単に確認できるツールのない時代に何をしたか?

試合が始まってから前半の映像を即座に編集し、ハーフタイムには見られるように準備していたというのです。

とてもあわただしい作業となったのでしょうが、情報分析をするということを早くに取り入れたのです。

 

他競技からの人材発掘

短距離走や跳躍力など運動能力に優れた人材を、ラグビー経験の有無に関係なくスカウトするというものです。

それを「平尾プロジェクト」といい、これを推進しました。

徹子の部屋に出演された時にも「平尾プロジェクト」についてお話をされていますね。

 

代表選手の待遇を改善

日本代表の待遇を改善しプロとして扱うことを進め、そのひとつが海外遠征の航空機をエコノミークラスからビジネスクラスに変えるなどです。

 

日本代表の「国際化」

先発15人中、3人程度の起用だった海外出身の選手を平均は5.67人(平尾さんが率いた99年W杯ウェールズ大会の3試合)にまで積極的に起用し活用した。

 

これらの平尾誠二さんの新しい発想による試みは、日本代表の大きな変革となったんです。

 

平尾誠二さんの新しい試みが日本代表にもたらしたものは

平尾ジャパンの方針、新しい試みがその後の日本代表にどう影響していったのでしょうか。

 

海外選手を積極起用したことの影響

近年、先発15人の中に海外出身選手が5~6人というのが日本代表の基本線になっています。

それは、当時日本人である平尾監督が海外出身選手の積極起用に道を開いたことで、その後にW杯の日本代表を指揮したジョン・カーワン氏やエディー・ジョーンズ氏の二人の外国人指導者の方針に影響したのではないでしょうか。

現在2023年のワールドカップフランス大会でも、外国人選手の積極的な起用がされているようですね。

 

1999年W杯の結果

様々な試みで強化したはずの日本代表でしたが、1999年のワールドカップでは想定外の原因で敗れしまったんですね。

想定外だったのは、海外チームの選手がプロ化してもっと強くなっていたということ。

簡単に言うと、プロのほどんどいない日本は弱かったということになってしまうんです。

それに加え指導者や審判ら海外の関係者との人脈も乏しく、海外チームの分析に力を入れていたとはいえ詳細なデータを得るまでには至っていなかったのが原因ではないかと言われています。

ワールドカップでは対戦国が以前とは違う姿を見せ、日本代表は力を出し切れなかったんだそうです。

 

その後の日本代表にどんな影響を与えた?

2000年11月に平尾誠二さんは、日本代表監督を辞任。

99年W杯のメンバーだった岩渕健輔氏が、それから12年後の2012年に日本代表のGMに就任しました。

岩淵GMが過去の日本代表や海外チームの分析に取り組んだところ、「平尾さんのときに日本代表がやったことはすごく進んでいた」という結論に至ったそうです。

平尾さんは先進的な考え方をする人だったんですね。

新しい代表の強化は当時の指針を参考にしたそうですが、エディー・ジョーンズ監督の具体策は「平尾ジャパン」と重なるところが多くあったそうです。

そして、この「平尾ジャパン」の流れを汲んで日本代表は進化し続けて今があるのでしょう。

平尾誠二さんは類まれなラグビーの才能の持ち主であったこと、そして先を見通す眼を持ち日本代表が躍進する基礎を作った人だったということなんですね。

だから「ミスターラグビー」と呼ばれるようになったんですね。

 

まとめ

ラグビー平尾誠二の名言とは?ミスターラグビー平尾誠二と称される理由は?

ラグビーワールドカップフランス大会で、日本代表がまず一勝をあげて頑張ってますね。

2000年代以前、世界を相手になかなか勝てなかった日本代表。

当時のテレビの試合中継で、フランスの選手に体ごと持ちあげられてしまっている日本の選手の姿を観て驚きました。

その時、ラグビーというスポーツはこんなにも海外との差があるのかと思いました。

調べていくと、日本を強くするために平尾誠二さんが日本代表の強化方法を新たに考えて実践していったことがわかりました。

平尾さんは非常に多くの名言を残している方で、人を叱る時の四つの心得なんかはスポーツ以外の多くのことにも当てはまります。

こんなにたくさんの名言がスルスルと出てくるなんて、知性があって自分の意見をわかりやすく言語化する能力が優れた方だったのだと感じました。

「ミスターラグビー」と言われるのは、伏見工業高校時代からずっと端正な顔立ちの超イケメンラガーマンだからということだけではないんですね。

日本代表監督時代には、いち早く取り入れた相手チームの分析や外国人選手の積極的起用などいままでのラグビー界では誰も取り入れていなかったやり方で日本代表を強化することを考えました。

それが、現在のラグビー日本代表の強化と躍進に繋がったことがわかりました。

だから世の中のひとたちは、尊敬の念をもって平尾誠二さんのことを「ミスターラグビー」と呼ぶのでしょう。

以上、ラグビー平尾誠二の名言とは?ミスターラグビー平尾誠二と称される理由は?をお届けしました。